いのちの熱

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もう何年か前、震災の前の年でしたか、福島・三春町のお寺で元旦の早朝座禅会に参加したときのこと。

それまで毎月25日に行われていた座禅会には、折よく郡山や川内村に出向いていればその都度出ていたけれど、元旦、しかも早朝5時から座るというのは後にも先にもこの時が初めて。大晦日から明けるか明けないかという時刻に東京を出発、車をとばして三春町へ。福島県内に入ると、雪が舞っていて、お寺に着くと、もうすでに白く積もっていること…。

元旦5時、合図とともにおごそかに開始。いつもとちがう特別メニューで、般若心経の他にも読んだことのないリズミカルなたぶん讃歌のようなお経を唱える。本堂の中は大きなストーブが3台くらい備えてあり、真冬の早朝といえども寒さをそれほど気にせず足が組める。

座禅はいつものように、20分を3セット。3セット目もいい塩梅のころ、さすがにほとんど眠らずに夜を明かして福島まで来たのでウトウトしてしまうな…と諦めのような達観もどきのような境地に達したところ、和尚さんが突如として立ち上がり、ストーブの灯を止め、閉めきっていた本堂の雨戸から扉から何から、全て開けはじめた。

雪化粧の寺の庭から当然のように、しかし一大イベントが華々しく始まったかのように、吹き込む雪混じりの風。朝のやわらかな光も入ってくる。

冷たい風が急激に体中の温度を奪っていくので、体が危機を感じたのが分かった。「どうしたらいいんだろう」そんなことを、「体が」思ったように感じた。私の意志に関係なく。

そこで、和尚さんが直前におっしゃっていた言葉「ゆっくり呼吸をすれば血がめぐって自然と体があたたまるものです」を思い出し、ああそうかと、必死に、ゆっくり呼吸をした。「必死に、ゆっくり」が矛盾しているようで今ふりかえると可笑しくなるが、体温を少しでも上げるためにひたすらそれに没頭した。

すると、体の「熱」がたしかに、私の中にあるのが分かった。あ、私って、熱を持っている物体なんだ、と。これほどまでに自分のあたたかいものを感じたことがなかったので、新鮮だった。ああ、そうか、これが生きているってことなんだ、って。

東北地方の炭焼き職人さんのツイートに、このところの冷え込みにストーブが大活躍しているとのくだりで、「いのちとは一つに熱である」という言葉を見て、この座禅会でのことをふと思い出したのです。

 

 


2015-11-27 | Posted in ... Blog ...Comments Closed